本論文の目的は「日本におけるハイドン像の変遷」について考察することである。ヨーゼフ・ハイドンは多数の交響曲及び弦楽四重奏曲を作り、それらの形式を定めたことから一般に「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれている。ハイドンはクラシック音楽の歴史において非常に重要な作曲家であるが、一方で彼の知名度はモーツァルトやベートーヴェンに及ばない。このようにハイドンの存在感が薄くなってしまっている原因は何だろか。本論では、以上に紹介したハイドンのイメージが日本におけるクラシック音楽の受容の仕方に影響を受けていると仮定し、明治以降に書かれた音楽事典などを用いて時代の背景を考慮しつつそれぞれの時代に描かれたハイドンのイメージを分析することで、日本のハイドン像の変遷を辿っていく。
第一章では初めに日本のクラシック音楽の定義を紹介する。日本では元々「クラシック」という語に音楽の意が含まれていなかった。ここではクラシックが本来何を意味していたのか、そしていつ頃から音楽のことも指すようになったのかを明白にする。次にヨーロッパにおける古典派音楽について述べ、その後ハイドンをはじめとする古典派の音楽家たちが「啓蒙主義」からフランス革命という怒涛の変革期にどのように音楽活動を行ったのかについて紹介する。さらに、ハイドンが確立したと言われるソナタ形式についても説明する。
第二章ではハイドンの生涯について考察する。一節から四節まではハイドンの生涯における主な出来事を取り上げ、18 世紀後半から 19 世紀初頭という市民が台頭し始める時代において音楽家の社会的地位がどのように変化したのか、またそのような時代背景がハイドンの音楽活動へどのような影響を及ぼしたのかについて論じる。最後にモーツァルトやベートーヴェンとの比較から、ハイドンが地味な存在となってしまう理由を彼が旧体制下のキャリアパターンの中で生きた点に起因させた。
第三章では本論文のテーマである「日本のハイドン像の変化」について考察した。まず明治期の日本に欧米文化が一気に流入したことで「音楽」という概念が誕生したこと、さらに当時の日本ではドイツをモデルとして改革が進められたことを説明した。次に明治から現代にかけて出版された音楽事典などを分析した結果、過去百年の間固定化されたハイドンのイメージがある一方で、その書籍が書かれた時代の社会情勢などの影響によってクラシック音楽に対する考え方が変化し、それが作曲家としてのハイドンの印象に影響を及ぼすことを明らかにした。
本論文を通じて、歴史的・社会的観点からハイドンという作曲家が日本においてどのように受容されてきたのかを考察することができた。それぞれの時代が重視する思想によって作曲家のイメージが変化するということは、今後もハイドンのイメージが変化する可能性があるということである。今後も新しい視点から彼の音楽が発見されることだろう。