赤松ゼミ

『ある鰐の手記』と『向日性植物』の比較—主人公像とスティグマの表象を中心に—

坂和佑香

 本稿では、邱妙津の『ある鰐の手記』と李屏瑤の『向日性植物』を取り上げ、台湾同志文学の歴史における2作品の位置づけと連続性を、各年代の代表作品とセクシュアル・マイノリティを取り巻く社会的背景に照らして整理した。そして2作品をレズビアンの主人公像の表象とレズビアンの死の表象の観点から比較分析し、台湾のレズビアン文学の特徴と表象の変化について考察した。
 第1章では、紀大偉の『正面與背影 ―台灣同志文學簡史』(2012)における(1)戒厳令下において白先勇が『孽子』等の同性愛小説を発表する70~80年代の啓蒙期、(2)1987年の戒厳令解除以降、さまざまなLGBT文学が出現し、ピークを迎える90年代の発展期、(3)ネットの普及によって出版物の発行が減少していく90年代以降の沈滞期という3段階の区分をもとに台湾同志文学の変遷を辿った。そして『ある鰐の手記』は第2段階に、李屏瑤の『向日性植物』はその先の第4段階に位置付けられ、自死と結びついた90年代から病や自死などの悲劇的なイメージを脱却する次の時代の物語へレズビアン文学が変化していることを明らかにした。
 第2章では、2作の主人公像の表象を比較した。『ある鰐の手記』の主人公拉子の男役という形をとるアイデンティティを分析し、これを踏まえた『向日性植物』の主人公「私」の表象において、セクシュアル・アイデンティティを自覚し確立に向かう段階を掘り下げ、より人物像が立体的に描かれている、客観的な視点を確保し破綻なく安定したセクシュアル・アイデンティティの形成を試みている、主人公と社会との接続がより強まっている、という3点が『ある鰐の手記』から進展していることを明らかにした。
 第3章では、2作のレズビアンの死の表象を比較した。『ある鰐の手記』がレズビアンの自死する物語と認識されている状況に対し、拉子と不可分の存在の「鰐」の自死が拉子と重ねられるものの、拉子の最後の言動からは自死が描かれていると断定できないことを明らかにした。「レズビアンが自殺しない物語」を掲げた『向日性植物』では、レズビアンの自死が描かれなかったことで、自死するレズビアン文学からの脱却がみられた。しかしレズビアンの病死が描かれており、入院にともない同性愛者であるために社会的障壁が生じるなど実態に即したレズビアン像を描くことに成功しているが、レズビアンに対し死というスティグマを付与することから逃れられていない点が課題として残る。
 このように台湾レズビアン文学の歴史から『ある鰐の手記』におけるレズビアン表象の克服が求められる理由を整理した上で『ある鰐の手記』と『向日性植物』との比較を行った結果、『向日性植物』はレズビアンに対するスティグマからの解放を進める途上にある物語ということが明らかになった。刊行後の同性婚の実現などを経た台湾社会と今後新たな作品とが相互に作用しその進展を促すことを期待したい。