渡邉ゼミ

オーストリア皇妃エリザベトとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世~二者のアキレイオン荘~

山口萌子

 19世紀オーストリア帝国(あるいはオーストリア=ハンガリー二重帝国。本論文では便宜上オーストリア帝国と記述)の皇妃エリザベトは、バイエルン王国の国王ヴィッテルスバッハ家の傍家の公爵家に公女として誕生した。従兄にあたるハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ1世との結婚で彼女はオーストリア帝国の皇妃となる。
 しかし、彼女は伝統や義務よりも知的好奇心を優先する自由奔放な父の影響を強く受けて育ったため、因習的な規則に縛られたウィーン宮廷の生活に適応できなかった。ハプスブルク家の伝統と義務を重んじる大公妃ゾフィとの対立は深まり、彼女は精神的に衰弱し、閉じこもる性格になった。しかし次第に大公妃への強い反発を示し、彼女の監視の目を盗んで趣味の乗馬や旅行に傾倒する。その中でも外国への旅行には一年の大半を費やし、煩わしいウィーンから逃避した。
 そしてある時訪れたギリシャのコルフ島は、地中海の温暖な気候と生い茂る木々が美しく、その風光明媚な風景が彼女の心を捉えた。ギリシャ神話に登場する神聖な土地という説もあり、彼女はこの地に別荘「アキレイオン荘」を建設した。古代ギリシャの建築を模した新古典主義建築の白い小さな宮殿である。そこには、ギリシャ神話の英雄アキレウスの彫像が飾られ、彼女は非常に気に入っていた。この「死にゆくアキレウス」像には、エリザベトの二つの理想像が投影されていると考えられる。
 一つは、権力者(彼女にとっては大公妃であった)に支配され自由を否定されることを何よりも嫌った彼女が、敵を打ち破るアキレウスの力強さに憧れていた点である。二つ目に、彼女の息子である皇太子ルドルフが投影されたことが考えられる。ルドルフは皇帝である父と政治的に対立し、将来を悲観して情死した。エリザベトはルドルフと同じくオーストリア帝国下のハンガリーの独立を支持していたと思われる点もあり、彼が皇帝に反逆し、独立を勝ち取ることを願っていたとの見方もできる。そして、若くして逝去したルドルフを同じく若くして戦場で倒れたアキレウスと重ね息子を想っていたと考える。
 そして、彼女の死後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世がアキレイオン荘を購入した。彼は「硬派」な軍人という世間一般のイメージが強いが、実際にはそれだけではない。知的好奇心が強く、歴史学や考古学、科学にも関心が強かったという一面もある。また、彼の独善的とも思われる傲慢な性格は、彼が生まれ持った左腕の運動障害と、その治療における身体的・精神的苦痛が生み出した劣等感の反動であるという説もある。
 そのような複雑な性質を持った彼は、エリザベトの外見を気にする性格や、そのために作り上げた外向きの「美しい皇妃」のイメージを保つために努力をしたという点に似通っている。また、主に船での旅を愛し、歴史学・考古学にも造詣が深かったヴィルヘルムは彼女との共通点が多く認められる。
 そして、彼は購入したアキレイオン荘に兵舎とされる別棟を建設したり、新しいアキレウス像を設置したりした。エリザベトのそれとは対照的な像であり、彼女がアキレウスに投影した理想とは異なる部分もあるものの、根底ではエリザベトに親しみを感じ、尊敬し、彼女のアキレウス像も撤去せずにふさわしい場所へと移動させるという配慮を見せている。それは、彼がエリザベトの精神面を理解し、共感できる部分があったからだと考えられる。
 一見、二者は対照的な人物に思われるが、それぞれ「他者からの自分」という外向きの人格を演じることに熱心であったことが共通していた。そして、異なるアキレウス像に自身の理想と野心を投影し、安らぎの場としてコルフ島・アキレイオン荘に滞在したのである。