岩谷ゼミ

いったい何がポップ・アートをアートにしているのか

鳥瀬友莉穂

 1956年、ホワイト・チャペル・ギャラリーで開催された「これが明日だ」展にリチャード・ハミルトンの《いったい何が今日の家庭をこれほどまでに変え、魅力的にしているのか》(以下では《いったい何が》と略記)が発表された。ポップ・アートは、ギリシャ時代から19世紀にはアートとしては認められなかっただろう。この論文ではそのポップ・アートが、いつどのようにしてアートとして認められたのかを考える。そのために、それまでの芸術の在り方や概念にはどのような変化があったのかを検証していく必要がある。
 現代人の考える芸術とギリシャ時代の芸術には違いがあるのか。第1章では、17世紀までの芸術とは何かを考える。まず人間が自らの生と生の環境を改造するための力を広い意味での art といい、「芸術」という語彙は『後漢書』にも出てくる古い言葉である。そして、17世紀までの芸術を代表して、13世紀末から15世紀末にかけて起こった芸術の革新運動であるルネサンス、17世紀の芸術、バロックについて考える。
 第2章では、18世紀から19世紀の間に起きた芸術に対する考え方の変化について考察する。それまでギリシャ時代の考え方はルネサンス期や啓蒙時代に影響を与えていたが、これに変化をもたらした1つが、エマヌエル・カントが発表した『判断力批判』である。芸術に対する考え方として、19世紀に入り新しく表現説、形式主義による説、美的機能説の3つの説が唱えられた。
 第3章では、20世紀初頭に起こった「ダダ」について検討する。ダダとは価値の転換を図る運動である。ダダの1つニューヨークのダダを代表する芸術家マルセル・デュシャンは1917年に《泉》を発表した。当時公認されることはなかったが、古い概念では到底芸術とは考えられないものを芸術に転化する時、デュジャンは心強い前例となった。
 第4章では、この論文で最も注目している「ポップ・アート」について考察する。この名称は、1954年からロンドンで使われ始め、最初は大衆文化を指す俗語であった。イギリスで生まれた「ポップ・アート」作家の中でいち早く大衆的なイメージを使い始めたのがエデュアード・パオロッツィで、雑誌や広告から卑俗なイメージをスクラップ・ブックに時代の風俗として収集し、皮肉の利かせたコラージュを作っていた。「ポップ・アート」がアートとして認められた一番初めの作品は、1957年に開催された「これが明日だ」展のハミルトンのコラージュ作品、《いったい何が》と言われている。
 以上の考察に基づき《いったい何が》は、デュシャンの《泉》を前提に、アートとして認められたと結論付けられる。デュシャンが《泉》を発表したことで、「既製品」であってもアートになる可能性が出てきて、もともと絵画技法であった「コラージュ」を、既製品である雑誌などから切り取り、貼り付けたものも、芸術作品として認められるようになったのである。デュシャンの芸術に対する批判的な姿勢が、《泉》を生み出し、その後ポップ・アートが新しいアートとして認められるほど、芸術に対する当時の人々の概念を変えたのである。