教員近況

YouTube番組とウェブサイト作り

赤松美和子

 日本台湾修学旅行支援研究者ネットワーク(SNET台湾)として活動しているのに、新型コロナウィルス感染症の影響で、海外修学旅行は夢となった。そこで今年は、遠隔授業などでも使用可能なオンライン教材の開発に活動を切り替え、YouTubeにSNET台湾チャンネルを開設し、「台湾修学旅行アカデミー」「おうちで楽しもう台湾の博物館」の二種の番組を企画制作配信した。また学習目的から台湾旅をデザインするウェブサイト「みんなの台湾修学旅行ナビ」を立ち上げた。
 「台湾修学旅行アカデミー」は、台湾研究者を講師として中高生の疑問に答える形で台湾を考える楽しさをわかりやすく伝えたオンライン教材である。各回の講師とテーマは、①松田康博「台湾とは何か?」、②福田円「台湾と国際社会」、③山﨑直也「台湾の教育」、④小笠原欣幸「台湾の選挙」、⑤川上桃子「台湾の経済」、特別篇として鉄道博物館の現地レポート三本と教材篇一本、合計九本を配信した。
 「おうちで楽しもう台湾の博物館」は、台湾の博物館が制作した動画に、解説と日本語字幕を付け、台湾の博物館を日本語話者に紹介するオンライン教材である。紹介した博物館は、国立台湾博物館、国立故宮博物院、国家人権博物館、国立中正紀念堂、国立台湾史前文化博物館、国立台湾文学館、二二八国家紀念館、順益台湾原住民博物館、衛武衛国家芸術中心、国立台湾歴史博物館の一〇館。SNET台湾チャンネルのURL https://www.youtube.com/channel/UCmtfk9gkQH-hiqUvXKDF4kQ
 「みんなの台湾修学旅行ナビ」は、約五〇人の台湾研究者が、一四二のスポットについて、学習テーマ・概要・学びのポイント・事前学習・現地体験学習・さらに学びを深めよう・参考資料紹介など学ぶための情報やヒントをわかりやすく簡潔に紹介したウェブサイトだ。
URL https://taiwan-shugakuryoko.jp/
 今年は、YouTubeデビューしたり、ウェブサイトを設計したり、思いがけず初経験に恵まれた一年となった。

ステイ・ホームの<希望>

安藤恭子

 週に一度、「オンライン・ヨガ」に参加すること。これが、現在の私にとって唯一の身体を動かす機会です。友人がヨガの先生で良かった!と心底思います。この週一のヨガを含めて、パソコンを中心に半径2、3mがステイ・ホームの生活圏です。
 ヨガをして気づいたことは、これまでの自分の呼吸がいかに浅かったか、ということ。呼吸というものが、内臓全体の動きと連動していることはもちろん、心の動きとつながっていることを実感しています。
 パソコンを前にして、オンライン授業のためのパワーポイントを作成する、ZOOMで授業をする、また、学会の会議をZOOMでおこなう……。慣れないことで、とまどいも多い毎日。しかし、つらいことばかりではなく、違った授業形態からの学びも多く、狭い生活圏の中でも自分の世界を広げることが可能であることも、新たな発見です。
 ヨガの先生は、「額を広くして、遠い世界を想像して」とよくおっしゃいます。「思い切り息を吐いて、すべて投げ出して」とも。浅い息を細かく繰り返し、眉間に皺をよせるのをやめよう!と思いつつ、パソコンの画面にへばりつく……。この繰り返しの中にも、きっと何かが私に大切なことを教えてくれる―これが、今の私の<希望>です。

近況報告

石川照子

 誰もが予想もしなかった新型コロナウィルス拡大という状況の中で、本学もオンライン授業への変更を余儀なくされました。
 そして、私も学科長二年目ということで、日々授業や学生対応、校務等に追われています。学生のみなさんも慣れないオンライン授業に、今年は大変な思いをされています。通学に時間がとられない、自分の自由な時間に受講できる、課題をこなして例年より勉強している等、オンライン授業のメリットについての声も聞こえます。しかし、授業は教員と学生との間のキャッチボール、実際に対面して学生の皆さんの細かな表情や反応を見ながらするものであると、逆に改めて痛感させられています。特に一年生のみなさんは、ほとんど登校して授業を受けられないでいることを、私たち教員も大変心苦しく思っています。来年度は対面授業もかなり再開されます。みなさんと教室で会える日を、本当に楽しみにしています。
 研究面においては、日中女性関係史の研究に引続き取り組んでいます。一九二〇・三〇年代の戦争の危機が迫るという緊張した時代において、それでも理解と連帯を求めた日中両国の女性たちの姿は、目下の困難な中にある私たちに、大きな勇気と希望を与えてくれます。
 皆さんも体に気をつけて、元気で毎日を過ごして下さい!

近況

井上淳

 本誌が公刊される頃には、私がこの学部に着任してから丸10年が経ちます。なんとか勤続できたのも、教職員の皆様、学生の皆さん、卒業生とりわけゼミの卒業生の皆様のおかげです、ありがとうございます。
 さて、私は近年、レンタル畑を利用して農園をしています。当初は運動のつもりで始めたのですが、身体だけでなく頭も使わされます。土づくり、植え付け、ネットや支柱の設営、水やりや追肥、害虫・害獣対策、間引き、等々…漫然と作業をしていると、あるいは手抜きをしていると、次の段階に来た時に自分が苦労する。日照条件の関係か、作物にも「こちらに伸びたい」という意図があるのか、それを無視した誘引をすると後で後悔する。水や肥料はやらなさすぎても、やり過ぎてもだめ。同じ条件で育てているように見えて、株ごとに生育が異なる。そして、どれだけ手をかけても、害虫、害獣、そして台風にやられることだってある。その既視感とやら。そうなのです、子育てや大学での学生指導で日々痛感していることなのです。
 授業においては、1学期、1学年、4年間、と各段階での到達点を考え、こちらの授業で出てきたことがあちらの授業で繋がるように手配し、学期中に想定と異なることが生じれば微調整する。個別指導においては、できる限り本人の進みたい方向へ伸びるよう、手助けをする。本人の意図にそぐわない助言をせざるを得ない時は、その時には響かなくてもそのようにする。学生も教員も人間であり意思と感情をもつ以上、成長のお手伝いがいつも成功する訳ではありませんが、少しでもうまくいくよう努めています。
 ということで、オンライン授業が多いこのご時世、おとなしくやり過ごしてしまうと、学生の意思や希望は伝わりません。今まで以上にどのように伸びたいかをアピールしていただき、この人はと思える先生の助言を受けて羽ばたいてもらえたらと切に願っています。

近況報告

上野未央

 12月9日、比較文化学会の特別講演会として、原研二先生の講演会が開催されました。この『カリオペ』電子版に、この講演会の内容が掲載されるのでそれも楽しみにしていますが、私は会場で原ゼミの学生たちや何人かの先生方、助手さんたちといっしょにご講演を聞くことができました。原先生の語りによって、それぞれが関係を持たないような、様々な場面(映画や建築、俳句、詩の一節など)が、するすると繋がっていく、そんな体験をすることができました。そして、自分が面白いと思うことを追求していくことは、この上なく楽しいのだということが伝わってくる講演会でした。
 昨年私が客員研究員として所属していた、ロンドン大学の歴史学研究所では、頻繁にセミナーが開催されており、様々なテーマの研究報告がありました。セミナーでは、その研究が何の役に立つのかということを考える前に、まずは面白いことを調べている、という感じの報告が多かったなあと思います。原先生のご講演を聞きながら、そんなことを思い出しました。そして、そういうありかたを見習っていきたいなと思いました。
 私自身は、今年は新型コロナウィルス感染症の影響で、オンラインとなった授業の準備に悪戦苦闘しているのですが、楽しい時もあります。たとえば英語の授業では、イギリス人のガーデナー、モンティ・ドンの日本の庭に関する本を学生といっしょに読んでいます。イギリス人のみた日本を知るのはなかなか楽しいです。モンティ・ドンは、日本には枯山水があるのに、日本人は家の庭には薔薇を植えるのを好むのです、などと言っています。また、今年から担当になった「イギリス文化研究」の授業で中世から近現代までのイギリス史を整理する中で、色々な新しい発見があってとても面白いです。オンラインのため学生たちの反応が見えず、彼女たちは面白いと思っているのか、確信はもてないままなのですが。

近況

江頭浩樹

 私の研究は、生成文法理論 – より最近のタームを使えば、ミニマリスト統語論 – です。この研究は、人間言語の本質を解明しようとする研究です。最近は編出分析(ExcorporationAnalysis)に基軸をおいて、研究を進めています。この分析は長年生成文法理論が抱えていた問題である、主要部移動による拡張条件の違反を回避する可能性を持つ有望な分析だと考えられます。この分析の妥当性の一つを、2015年にExtraction from Subjects: An Excorporation Accountという論文の中でしめしました。また準備中の論文でも具体的現象でその妥当性を示しています。もう一つ生成理論の大きな流れとして、生成理論考案者のChomskyは最近Labelingに関する理論を提唱し、人間言語の主要な演算のメカニズムである併合(merge)を完全に自由な操作(free merge)にするということを提唱しています。この流れの中に、編出分析を組みこむと、2015年の論文の中で扱った現象を、もっとシンプルな方法で説明できる可能性があるようです。今現在この可能性を追求しようと考えているところです。また、最近は人間言語の発生に関する論文を読む機会がふえ、興味をかき立てられています。その論文によると、「人間の進化のある時点で、脳の中で配線に変化が起き、それによって演算、すなわち併合(merge)が出来るようになった。それ以来人間言語の中核は現在に至るまで不変である。」下線部をひいた部分に大きな興味を覚えます。例えば英語は、Old EnglishからMiddle English、そして現代英語へと変化を遂げています。特にOEと現代英語は大きく異なっています。しかし中核は不変だというのです。同じことが日本語にも言えます。上代日本語と現代日本語、大きく異なっています。表面上の差異はあるが、中核は不変だというのです。実に面白い主張です。

近況

城殿智行

 この文は2020年末に記しますが、年頭から、隣国における感染症の流行を漏れ聞いていたにもかかわらず、2020年がこのような年になるとは、夢にも思いませんでした。疫学的なというよりは、科学的・社会的な不明を恥じます。
 比較文化学部は、本来、このような事態に対して、もっとも機動的に反応することが望まれる学部であるべきですが、実際に全世界を捲き込んだ感染症と、それが惹起した様々な変化に対して、適切に対処できたかどうか、心許ない限りです。
 在学生の皆さんも、卒業生の皆さんも、公的・私的に様々な不自由を経験しただけでなく、色々と考えるところ多かったのではないかと思います。お為ごかしではなく、本当に、とても勉強になる貴重な時間を、世界の人間が共有したのではないでしょうか。
 もはや私たちが、否応なしに一蓮托生のエピデミカルかつエコロジカルな前提を共有せざるをえないのだという痛切な教訓が、全世界の膨大な感染症犠牲者の方々を前にして、今後に活かされることを祈ってやみません。

近況

行田勇

 2020年度は大妻に勤めて15年目でした。昨年、この近況報告で、私は最後に次のように書きました。
 15というのはなんか区切りの数です。まあでも、だから特にどうってことはありませんが。ともかく平穏無事な1年でありますように。
 こんな私の願いがかなわない1年となってしまいました。社会の状況だけではありません。個人的にも心をかき乱すような出来事がいくつか起きました。残念ながら、「ともかく平穏無事な1年」とはいきませんでした。やれやれです。
 しかし、悲観的なことばかりではなかったような気もします。災い転じて福となすこともたくさんありました。コロナ禍の中、私自身が感染せずにこの1年を過ごせたことだって幸せなことです。そういうわけで、「良いことも悪いこともいろいろあった1年でした」という近況報告にしておきましょう。
 2021年度は大妻に勤めて16年目となります。今度こそ平穏無事な1年を過ごしたいものです。
 そうそう、昨年末にオーバーホールに出したCAAD10 の2号機(通称「一文字隼人」くん)は、その後見違えるような走りをしてくれています。ちなみに、1号機の「本郷猛」くんは専ら奥多摩や道志などへの輪行時に出動しています。

近況

久保忠行

 学生の皆さんの留学、語学研修が軒並み中止になりましたが、私がミャンマーでおこなう予定だったフィールドワークは中止、タイで参加予定のシンポジウムはオンライン開催になりました。2020年5月に大妻で開催予定だったビルマ研究会も2021年に延期になりました。現時点で開催方法と時期は未定です。ビルマ研究会は1986年に始まった研究会ですが、あえて学会のように組織化せずに継続している研究会です。次年度の開催地はその年の懇親会の場で決まります。そんなゆるさもあり、関心のある人は誰でも参加できます。メンバーリストの登録者は増え続け、研究会と名がつくものの学会のように2日間にわたって開催されます。参加者は研究者だけでなく、現地で働いている人やジャーナリスト、どこかの大学の卒業生、ミャンマー人など多彩です。
 卒業後、ミャンマーに興味をもってしまった人、仕事でミャンマーと関わることになってしまった人はぜひ来てください。新しい出会いがあるかもしれません。ホームページなどはありませんので、詳細については気軽に問い合わせてください。

近況

佐藤円

 いやはや、不慣れな学部長を一年やって、少しは慣れたかなと思った矢先に新型コロナウィルス感染症の蔓延という事態となりました。
 今年度大学は新学期早々閉鎖となり、5月からようやく授業が始まったものの、ほとんどがオンライン授業という状態でした。担当していた講義科目では、対面式の授業で使っていた素材をそのままオンラインで提示するわけにもいかず、毎週授業素材を新しく作り直す日々が続きました。対面式の授業では、学生さんたちの反応を確認しながら授業が進められますが、授業素材を提示するだけのオンデマンド授業では、臨機応変にその場で説明を変えるという「技」も使えず、どこまで学生さんたちが授業内容を理解してくれたのか不安が残ります。オンデマンド授業に加えて、これまで使ってこともなかったオンライン会議システムを使ってのゼミもやってみました。どんなことになるのやらと思いましたが、こちらはある程度はゼミらしくできました。ただ画面を通してのやりとりだと、人が集まり創りだす生の「空気」が存在しないために共感が湧きにくいという問題があることがよく分かりました。オンラインでのバーチャルなコミュニケーションの可能性と限界を学びました。
 そしてもう一つ学んだことがあります。それは自分の身体がやはり年相応だったということです。コンピューターの前に座り、キーボードをたたく時間が急に増えたら、今さらの「六十肩」になりました。「四十肩」や「五十肩」には縁が無かったので、身体が若いと自慢していましたが、化けの皮が剥がれたという次第です。「六十肩」ってキーボードで打っても変換されません。本来還暦(実はついに昨年そうなりました)を過ぎると肩の症状は出ないということなのでしょうか。ということはやはり若いのかな、などと性懲りも無くまた思っています。

エマニエル坊や

佐藤実

 ここ何年か顔占いについて調べたり調べていなかったりしているのですが、いつかまとめられたらなあと思っています。で、もしまとめることができたならその冒頭で、有名な一節を引用してから本文を始めるというあのカッコイイことをやってみたいなあと思っているわけです。研究は進んでいなくても、すでにその一節は決まっています。「冗談は顔だけにしてくれよ!(エマニエル坊や)」これです。これはボクが小学生ぐらいのときにテレビでやっていた「エマニエル坊やは人気者」というアメリカのシチュエーション・コメディの主人公の決めぜりふなんですね。「冗談は顔だけにしてくれよ!」この言葉、いいですよね。ふざけるな!というところを、冗談はやめてほしいけど、あなたの顔だけは冗談として許す。寛容の精神でしょうか。顔はかえられませんからね。親しい友人にも使えますし、腹の立つ相手に言うと(きっと)痛快な気分になる言葉でありましょう。冗談としての顔。冗談みたいな顔?どんな顔だろ。こうした話を某先生にしたら、そんな英語表現があるのかと思ったんでしょうね、調べてくれました。英語で何というと思います?なんと「What are you talking about?」。思わず、何言ってんのよ?ですよ。そっかあ、すごい訳だなあ、というか訳を超えてるなあ。超訳ってこういうことなんだな、と感動したわけです。というわけで、あの番組を久しぶりに見てみたいなと思って動画をインターネットで調べると、もちろんありましたよ。え?アーノルド坊や?そっかあ。そうだったかあ。エマニエルは違ったなあ。

近況

Johnson, G.S.

 今年度は、ステイホームという、限られた空間で沢山できることを増やしました。ご存知の通り、自粛期間を経験し、主にステイホームでの授業を試行錯誤の中で、オンライン用の科目に作り直しました。学生の皆さんには多くのご協力いただきました。感謝致します。学生たちもインターネットプラットフォームを事前に使ったことがありませんでした。やはり、授業の内容とプラットフォームの操作の仕方について色々な質問がありました。しかし、思ったよりは、質問が少なく、学生たちは普段よりもさらに自立心を表してくれました。
 何度もその傾向に注目しましたが、一つ例を取り上げます。ある学生が、宿題をプラットフォームからダウンロードをし、解答用紙を開いて、読んでから答えを書き込む事ができませんでした。「どうすればいいでしょうか」という質問が普通に発生します。しかし、今回、学生はコンピューターで問題と解答用紙が読めたようですので、回答用紙を手で写しました。そして、答えを書き込んで、スマートフォンで写真を撮って、写メをプラットフォームに送信し、宿題が提出できました。Bravo!
 本学部の学生は、状況に応じて、柔軟性があり、困難な時期に負けませんでした。
 私は改めて、学生たちを心強く感じました。

近況

銭国紅

 前半は、中国と米国との貿易戦争の進行に目を奪われる日が多く、後半は新型肺炎の世界的な流行が収束を見せない状況に憂慮を覚えずにいられない日々に追われていました。感染症の世界的な大流行の進行ぶりからは、地球は一つであることを再認識させられた一方、新型肺炎の感染への見方を巡って、国と国の間、国の中においても完全に対立した考え方が存在している厳しい現実から、人種や文化、イデオロギーの相違をいかに乗り越えていけるかを考えることの大事さに強く気づかされました。
 この一年の歳月はコロナの流行に向き合いながらオンライン授業をする学生にも励まされる連続でした。このような経験により私の学生を見る目が一変しました。現実世界の急激な変化に振り回され、戸惑いを感じながら、一方において真剣にオンライン授業と向き合い、奮闘する学生たちの成長ぶりに日々感銘されるばかりです。

近況

高田馨里

 今までとは異なる生活環境に適応しなければならない日々を過ごしてきました。2020年は新型コロナウイルスの影響を受けて多くの人々が適応に追われてきたと思います。私自身、自分だけではなく、他者を思いやっていくことの重要性も再確認する日々でした。授業についても遠隔オンライン授業を展開してきました。至らない点も多かったと思いますが、学生の皆さんは課題をこなしていくのも大変だったと思いますが、よく頑張りましたね。就職活動を行った4年生、これから就職活動を始める3年生にとっても不安は多いと思います。卒業生の皆さんも対応に追われたことでしょう。新型コロナウイルスの問題は解決にはまだ程遠い状況だと考えます。ワクチンの完成と投与が効果を示すのにも、もう少し時間がかかるかもしれませんが、明るい兆しは見えてきました。状況がよくなること、そして学生のみなさん、卒業生のみなさんのご健勝を祈っています。

近況報告 2020年は学ぶこと大

貫井一美

 コロナ感染の始まりは長期留学生の帰国と重なりました。今年度は国際交流委員なので 長期留学生の帰国は、まさにコロナ感染の最初の拡大時期の端緒でもありました。マスク着用とソーシャルディスタンスの証書授与式があり、卒業式は中止。2020年度の前期の授業は、ほぼ1ヶ月遅れでのオンデマンドで始まりました。90分の授業内容を全てパワーポイントに作り直すという想像以上の体力と精神力を必要とする毎日に凹みそうになりかけた時、授業で17世紀スペインの死の美術を取り上げ、数百年前の遠い時代のセビーリャ社会を生きていた人々を思いました。1649年セビーリャではペストが蔓延し、朝は元気だった人が夕方には屍になり、街中には埋葬が追いつかない遺体が積み上げられていたと伝えられています。そのような厳しい、目を背けたくなる現実に直面したセビーリャで、バルデス・レアルの傑作、《束の間の命》、《この世の栄光の終わり》は生み出されました。宗教は異なっていても「死」と隣り合わせの状況の中で「死」と正面から向き合い、現実の「死」の向こう側にあるであろう永遠の命を願い、今を生きることの大切さを説くこの作品を今年ほど身近に考えたことはありません。17世紀のセビーリャを生きていた人々はどのような思いでどのように生き抜いていったのか、具体的に考えるようになりました。コロナ感染が収束して再びイベリアの地を踏み、セビーリャで2作品を見る時、私の目には何が映るのでしょうか。『デカメロン』や『ペスト』の時代と同様に《束の間の命》、《この世の栄光の終わり》の時代が決して終わってしまった遠い過去のことではないことを実感しています。それでも歴史は歩みを止めることなく私たちの時代へとつながっています。日々そんなことを考えながら、気づけば2020年も残すところわずかです。

近況

原研二

 自粛が続いております。
 自宅で何をしているかというと、一番時間をとられているのは、リモート授業に使うパワーポイントの準備。パワーポイント自体はやりなれていますが、テーマの並べ方には気を使います。それから卒論の相談に乗るのが大変でした。皆さんのテーマと考え方を受け止めるのが、どうしても不十分に終わりました。こちらのためらいが、そのまま学生に反映してしまいます。
 引きこもりが基本ですが、ときどき浅川に散歩に行きます。峨眉鳥、四十雀、百舌鳥、シメ、アオサギ、コゲラ、アトリ、コガラ、翡翠などに、運がよければ会えます。
 もう3月で定年退職なので、研究室の本の整理をしたいのですが、出校が少なく、片付けが進みません。芸術関係、ウィーン関係、宝塚関係はゼミ生にも分けていこうと思います。学生とのコミュニケーションもままならず、不完全燃焼のままです。そうこうするうち、1年が過ぎ、いつしかリモート授業に慣れ、学生もリモートでいいかも・・・と言い出します。これからもパンデミックは授業形態に多大な影響を与えることでしょう。

近況報告

米塚真治

 「近況報告」と言って身の回りを見ると暗くなります。かわりに自らの来し方を振り返ります。過去、現在、未来のなかで真にintactなのは過去だけである、という趣旨のことを、古代ローマのセネカも言っているではありませんか。
 英文科の大学院で学んだ私は「関東ならどこでも」という志望を出し、短大に職を得ました。翻訳を専門とする語学担当教員として。先方に訳あって、表向きはそうだが実際は英文学専門、という教員が求められていました。私は論文執筆にかまけて翻訳のアルバイトに勤しんでいたので、「業績」はたくさんありました。もちろん院生の素人バイトなので文学などでなく雑誌の記事や評論ばかりですが、本職の翻訳家でなくてもいいという求めには合っていました。何年か後には英文科の専任に転じました。
 こちらの職場に移ったときは「君のことは専ら校務要員として期待する」と面接で言われました。見くびられたとは感じたけれど、前の職場は少人数ゆえ老いも若きも校務を担っていたため、校務自体に抵抗はありませんでした。
 こちらの授業も苦にはなりませんでした。以前に別の職場から誘いを受け、「専門外」と辞退はしたけれど、今はそういう学問分野に需要があるのだなと感じて、社会学や文化研究の勉強を一人で始めていました。それに英文科以外で教える機会が多かったせいで、英語ができないとか文学を読まないとかいう理由で学生に腹を立てることもありませんでした。幅広く教える準備はできていたわけです。
 将来を見据えて何かするという打算には、意味がないと思う。しかし、今やっていることが(何もしないよりは)後で役に立つかもしれない。また視点を変えて見るなら、自分自身がやっていること(私の場合、万事中途半端)は年を経ても変わらない。そういうお話でした。