本研究は、韓国ミュージカル『ファントム』(2021)と『笑う男』(2019)を対象に、「異形の悲劇」という概念を軸として、異形のキャラクターである主人公たちの愛や正義が、いかに社会構造の中で歪められ、最終的に破綻していくのかを比較考察するものである。『ファントム』の主人公であるエリックと 『笑う男』の主人公であるグウィンプレインは、いずれも自ら選べない外見ゆえに社会から拒絶され、「理解されない他者」として位置づけられている。本研究は、彼らが抱く愛を比較しつつ、悲劇が個人の行為によってではなく、社会が「顔」の倫理に応答しなかったことによって生じる構造的な失敗であると指摘する。
まず理論的枠組みとして、アリストテレスの古典的悲劇論、レヴィナスの「顔」の倫理、 ハイデガーの「頽落」、功利主義の集団倫理、そしてエーリッヒ・フロムの愛の倫理を参照した。古典的悲劇が想定する「行為の誤り」による悲劇とは異なり、両作品の主人公たちは、 行為以前の段階で「存在そのもの」が拒否されている。レヴィナスによれば、他者の顔は私たちに「殺すな」と沈黙のうちに命じるが、社会がその召喚に応答しないとき、倫理は破綻する。本研究が定義する「異形の悲劇」とは、まさにこの倫理が機能しない時に引き起こされる破綻である。
『ファントム』では、エリックの愛は母性の喪失を埋める「ナルシシズム的愛」として描かれ、彼がクリスティーヌに投影する“빛(光)”のモチーフがその構造を象徴する。これはフロムが批判する「愛されたい」という受動的・依存的な愛であり、所有欲へと転じる危険を含んでいる。一方『笑う男』のグウィンプレインとデアの関係は、配慮・責任・尊敬・知によって支えられたフロムのいう成熟した「真の愛」に近い。しかし、その愛は社会の階級構造という冷酷なシステムによって押しつぶされる。つまり両者の愛の質は対照的であるにもかかわらず、2つの愛はいずれも社会構造によって破綻に至る。
さらに、存在論と功利主義を組み合わせることで、異形が社会から排除される倫理的根拠が説明できる。ハイデガーの「頽落」の世界では、共同体の安心感を維持するために規範から逸脱する者が排除されやすく、功利主義はその排除を「最大多数の最大幸福」という名目で正当化する。この構造の中で、異形のキャラクターは社会から主体としてではなく「無視してよい存在」として扱われる。
本研究の意義は、これまで論じられてこなかった2作品を「異形の悲劇」という共通軸で捉え、哲学・倫理学・ミュージカル演出論を横断して分析した点にある。最終的に、本研究は「異形」とは特定の人物だけを指すのではなく、社会の中で理解されない私たち自身の側面の象徴でもあると結論づける。異形を笑う側ではなく「共に生きる側」から捉え直す視点を提示することで、作品が投げかける倫理的問いを現代社会に接続させることを目指した。