現代社会において、インターネットやSNSの普及は常時接続の環境をもたらした。人々は常に他者とつながり、承認を求め合う一方で、つながっているのに孤独を感じるという深刻なパラドックスに直面している。本研究は、こうした他律的な環境が個人の内省や自律を阻害しているという問題意識に基づき、移動と旅を主題とし、日常からの切断を描く映画ジャンル「ロードムービー」に着目した。常時接続が前提となる現代において、ロードムービーが描く孤独や無為がどのような現代的意義を持つのかを解明する必要性を感じ、本研究を志した。
本研究の目的は、ロードムービーというジャンルに描かれる主体的な切断と孤独の価値を、放浪型ロードムービーにおける無為の美学を通じて再評価することであった。特に、目的論的な物語構造を持たない作品群がいかにして既存の社会規範を無効化し、登場人物の孤立を独立へと昇華させているのかを明らかにすることを試みた。
本研究では、まず先行研究の整理を通じてロードムービーを志向型、逃避型、放浪型の三つに分類し、分析対象を、明確な目的地を持たずに彷徨う放浪型に定めた。具体的な作品分析においては、ヴィム・ヴェンダース、テオ・アンゲロプロスらの作品、および現代日本映画『百万円と苦虫女』を取り上げた。分析手法として、ジークフリート・クラカウアーやアンドレ・バザンのリアリズム映画論を援用し、特に長回しという映像技法が表現する時間の持続と無為の関係性を考察した。また、エミール・デュルケムの「アノミー」やアルノルト・ファン・ジェネップの「通過儀礼」といった社会学・文化人類学的概念を用い、旅における孤独の両義性を分析した。
従来、ロードムービーはアメリカン・ドリームの崩壊や自由の象徴として論じられることが多かったが、本研究の独自性は、これをSNS時代の常時接続社会への対抗という現代的な視座から捉え直した点にある。特に、生産性や効率性を重視する現代社会の規範に対し、放浪型ロードムービーが描く何もしない無為の時間を、単なる虚無ではなく、生の尊厳を回復するための積極的な美学として位置づけた点に新規性がある。
分析の結果、以下の三点が明らかとなった。第一に、放浪型ロードムービーにおける長回しによる無為の描写は、物語の因果律や社会的な生産性の規範から鑑賞者を解放し、物理的現実そのものの価値を再発見させる救済の機能を持つことである。第二に、旅における孤独は、アノミー的な疎外をもたらす危険性を孕みつつも、社会的な役割から離れて自己を再定義する主体的な内省の機会であり、他者との真の再接続へ至るための不可欠な通過儀礼であることを見出した。第三に、『百万円と苦虫女』の分析を通じ、現代におけるロードムービーの切断が、物理的な移動から関係性の遮断へと変容しており、それが過剰な接続社会における生存戦略として機能していることを実証した。 以上より、本研究は、ロードムービーが提示する切断する勇気と、無為の肯定こそが、他律的な承認欲求から脱却し、現代人が生の自律性を回復するための重要な指針となると結論づけた。